絶望の果てに

2024年会津大学コンピュータ理工学部コンピュータ理工学科卒業予定

2024 地方旧帝国大学大学院 入学予定

 

これが俺の肩書きだ。そして、会津大を志望したのは高校時代までに遡る。

 

俺は、偏差値が上がらず、路頭に迷っていた。高校の先生からは、「進研模試の偏差値が高いからお前が好きな大学を受けさせてやる」と言われ、俺は、迷わず、私立は東京理科と立命館、そしてついでに受験しようと考えた名城大。国公立大学は、会津大を選んだ。

 

理由は簡単。私立は、日程さえ被らなければたくさんの大学学部を受けることができる。しかし、国公立は違う。一発勝負で決まるから自分なりの学力に合わせて、会津大を選んだ。選んだ大学を先生は、「会津大、英語が強いところだな。」ぐらいの認識だったそうだ。名工大に進学した同級生は、「あいつ、会津に骨埋めるってよ」と鼻で笑われた。

 

あいつは、俺よりも成績が高く、そして実際、どんどん有名大学に合格を決めていった。だから、あいつがいうことに俺は、逆らわなかった。先生曰く、「結果を出すやつのいうことは聞ける」らしい。

 

逆に言えば、「結果を出さないと、いうことは聞かない」

そう、俺は、大学全落ちの一歩手前だった。会津大の受験だが、落ちた。これは、もう恥ずかしい。偏差値45の大学に落ちたのだから。俺は、その後、同級生とも会うのも恥ずかしかった。高校の卒業式のあと、唯一まだ合格発表が残っていた後期入試の名城大学の合否発表が残っていた。結果は、「合格」だった。

 

ここからが大学生活転落人生の始まりである。

 

高校卒業後、大学生活の過ごし方を一ミリも知らなかったせいか、入学した大学では、単位取得に苦労した。大好きな学問、物理だけは真面目に講義にでて、せかせかノートをとっていた記憶がある。残りはすべてスシローの皿洗いのバイトに勤しんだ。電車に乗って名古屋の中心街に行き、講義を受け、満員電車に揺られ、スシローで深夜までバイト。この繰り返した。

 

どれほどの月日が経ったろうか。大学生活初めての長期休みがあった。俺には、ゆとりがあった。しかし、そのゆとりは、一切の単位や大学の授業については関係ないが、このままの生活のルーティンには慣れていた。

 

ふと思うことがある。俺の人生に悔いを残したことがあるだろうか。ここのそこにモヤモヤが残っている。もっと別の生き方があったのではないだろうか。このまま、成績低空飛行で卒業して、新卒で就職できたとしても何が残るのか。親が汗水垂らして自分に投資してくれた金が学費でなくなって、残るのは、満員電車で揺られて後のバイト話か。もちろん、俺の生き方にも、人格にも、性格にも、そこから選択される行動にも問題があるのは、事実だと思う。

 

やり直したい。一回だけ、人生のリセットボタンを押せるとしたらいつだろうか。今ではないか。俺は、大学2年の時、再受験を考えた。もう、一回会津大を受験して、会津大に進学した時の世界線を見てみたい。

 

2020年4月会津大学コンピュータ理工学部コンピュータ理工学科 入学

 

受かった時、気づいたら受話器を片手にして、高校の先生に連絡していた。「先生、会津大受かりました。」先生からの反応はやや冷ややかだったように感じた。「そうか、2年遅れになるからな、就職に苦労するのは覚悟するように」と言われ、俺は、その後味の悪い言葉を打ち消すかのように、「今度、母校に行って、先生時間あれば、あいつと先生に会ってもいいですか?」と咄嗟に嘘の文句が出てしまった。

 

ここまで、来たんだ。一人の安っぽい田舎の男が、さらなる田舎に行くことにどれほどの人間が大学を受け直してまでも入る価値のある大学かと思うか。

 

大抵の人間は、価値がない行為と言えるだろう。名城をそのままストレートで卒業する。これが世間の生き方らしい。

 

会津大入学後、俺は、単位をかき集めるのに躍起になっていた。すでに履修の仕組みや大体の授業の内容をわかっている俺は、ある程度の数学の教養知識と物理学の知識ぐらいはあったから、コンピュータ関連科目以外は余裕だった。

 

プログラミング科目には手を焼いた。どうしたらその出力になるのか。ひらすら順をおいながら、手計算しながら、「なるほど、こういう仕組みで動いているのか」と気づくのには、すでに授業が終わっていて、気づいたら期末テスト。だから、成績はしばらく低空飛行だった。

 

また、何度か長期休みは地元に帰る機会があった。プログラミングなどコンピュータに関連した勉強ばかりしていた俺は、とりあえず金を貯めようと短期のバイトをしてみることにした。

 

久しぶりの履歴書。履歴書には、新しい大学の名前が刻まれている。

俺は、意気揚々と履歴書を採用担当者に渡す。

 

反応が薄い。学歴は触れられなかったことが多かった。それを理由に落とされるということもないが、ただ年齢がふたつ繰り上がっていることに抵抗感を覚える採用担当者の方もいたかもしれない。とあるバイトでは、コンピュータ理工学部コンピュータ理工学科という名前に「すごい名前だね」とは言われた。

 

まあ、何はともあれ、しばらく会津大生として過ごすのだ。

 

時はきた。研究室配属。コンピュータ科目で冴えなかった俺は、研究室に配属して、より良い結果を残す。これが俺の唯一の逆転の手段だ。研究室訪問したのは、自然言語処理の研究室。ここなら、英語が得意なことを生かして、さらにコンピュータについての知識も深められる。結果、配属されることが決まった。

 

2年の終わりの冬休み、俺は、早速、齧ったばかりの自然言語処理の知識を操り、インターンの面接へと向かった。オンラインではあったが、なかなか緊張した。これまで飲食店から、工場のバイトまで幅広く経験したが、こういったオンラインで新しい技術系のインターンの面接は初だからだ。

 

面接官から、質問があった。「やっている内容は、面白いというか、普通だね。何かそこでAIを組み合わせた研究とかしているのかな?」と言われ、せっかく初めて作ったシステムは、AIによって打ち消された。

 

俺は、途方に暮れた。また、壁があった。そもそもコンピュータサイエンスの世界において、「安定」という言葉なんてもうないのである。常に技術革新を遂げ、技術の様態は変化している。俺は、その世界に片足を突っ込んでいる。ならば、やるしかない。

 

三年の夏、俺は、さらなる技術、英語の向上、研究のヒントを得るため、バイトで貯めた金と親からの投資によって、アメリカに渡った。意識したのは、ただの文系留学で終わらせないこと。Pythonの授業では、100点の評価を叩き出した。

 

もう、これ以上、カスとは言わせねえ。手段をあるだけ使いまくって、全力を尽くし、成り上がる。これが俺のやり方だ。

 

帰国後、ネットワークの低レイヤーの技術に興味がわいた俺は、研究室を変更し、AIと光ファイバーの研究に取り掛かった。先生は、放任主義で、周りに聞けば、研究室によっては、ゼミやラボミがあるらしいが、うちはそんなことはなく、全部自分から聞かないと何ひとつとして進まない状況であった。

 

先生と学部生の差は大きい。学部生の俺の質問は低クオリティだと捉えられることがあるせいか、先生は、博士課程の人に質問してくださいとよくいわれたものだ。

 

博士課程は、中国からの留学生だが、カタコトの日本語で説明してくれる。何いっているのかは、ほんの辛うじて理解できるが、全ては理解できるようにするには、到底程遠い道のりだ。

 

そして、しばらくしてか、ついに大学院入試の時期がやってくる。俺にとって、またとない大チャンス。今や大学全入時代。大学に入って当たり前、事実、大学学部生の新規入学生の数は、右肩上がりに年々増え続けている。一方、大学院はというと、全体の10%程度で、女子に至っては10%を切る程度に大学院進学率は全体としては多くはない。

そうだ、ここに賭けよう。俺がやろうとしてる手法は、大学院ロンダとして揶揄されることも多いが、ここにしか俺にはチャンスがない、大学受験の屈辱を晴らすべく、唯一無二の絶好のチャンス。

 

志望校のエントリーはすでにした。

東京一工の一角を担う、その名も東京工業大学。よし、ここだ。ここに行こう。

必要なのは、TOEICの点数と応用数学。俺が苦手なコンピュータ関連科目の出題はないらしい。

 

さあ、試験本番。息を呑んで、問題冊子をめくった。なんだ、これは。過去問と違う。過去問の傾向と全然違うじゃないか。冷静に問題を見ても、その内容は、おそらくだが、東工大の授業内容らしく見えるが、コンピュータサイエンス専攻の俺には珍紛漢紛。ここまでか。

 

そのまま敗退した。その後、筑波大の受験仲間にも聞いてみたところ、どうやら彼女もダメだったらしい。正直に言えば、出題者に裏切られたといってしまえば、それまでだが、ここで得た経験は、何かを挑戦することにおいて、教訓になったのではないか、と無理にその失敗が何かに生かされようと綺麗事に片づけようとしている自分が負け犬のようで悔しい。

 

次こそは。お次は、旧帝大の出番だ。そういえば、先生が旧帝大出身だったよな。何か聞けるチャンスがあるぞと思った俺は、久しぶりに先生と話す。

 

結論からいうと、旧帝大から合格をいただいた。

嬉しかった。親は、嬉しがっていた。特別、晩飯が豪華なわけではなかったが、その日は、俺も内心、ちょっとホッとしていた。

 

最後に応募したバイトで書いた履歴書。俺は、もちろん意気揚々と旧帝国大学大学院入学予定、と書く。

 

採用担当者からの一言。「〇〇XX大学の大学院行くの?すごいね」

 

これが世の中である。 END.